JR横浜線の昔@ _THE淵野辺(昭和40年)  _ 横浜線で見かけたちょっとした物 

 

遺構方面

 

 

 

 

 JR横浜線の昔

 

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淵野辺・矢部間


2001年 vs 2023年


遺構  米陸軍相模補給廠専用線

 

   

▲クリックで拡大


水色の実線:米陸軍相模補給廠専用線
黄緑色の実線:横浜線

◯数字は、下記の画像数字に対応
(@〜F)
 
▲クリックで拡大
2001年12月
   

 2001年
淵野辺・矢部間の跨線橋から淵野辺方面を望む
 
▲撮影 7N4RBN様 2001/12/29
 2023年
 
■撮影 2023/02/05
画像@
 
■撮影 2023/02/05
 
 
 ■2023/04/19
 
▲撮影 Y205様 2012/12/2

■撮影 2012/12/05
 
▲撮影 gaku様 2012/12/06
 渡り線

2012年12月撤去


 2001年
淵野辺・矢部間の跨線橋から矢部方面を望む
 
▲撮影 7N4RBN様 2001/12/29
 2023年
 
■撮影 2023/02/05

では何故、淵野辺・矢部間に渡り線があったのでしょう?

その答えは
下記の配線図を参照ください 
 
1983(昭和58)年の配線図
1979(昭和54)年貨物取扱を廃止 
 
1965(4昭和40)年の配線図
 
1961(昭和36)年の配線図

 
 画像A
▲撮影 7N4RBN様 2001/12/29 
画像A
 
画像B
 
画像B

 ■2023/04/19
 在日米軍相模総合補給廠(在日米軍本州司令部相模工務部)に
続く線路が一部残っています。
 
相模 陸軍造兵廠跡の碑  廃 線  踏切跡 
  画像D
相模陸軍造兵廠は
戦後、接収されて大部分が米陸軍相模総合補給廠
になっています。
写真は(旧)上矢部公園の石碑。

この石碑は、(新)上矢部公園に移設されています。
踏切跡から補給廠方面を見た画像
まだマンション建設前で線路もほぼそのままの状態
上矢部公園も移設前
(画像左側が公園で現在は右側に移設) 
廃線の途中には踏切があった
画像E
 
画像E
 
 当時の街頭地図
廃線のカーブに合わせて公園が
曲線を描いているのがよくわかる
あまり効果のない
「廃線跡は菜園ではない」と警告する看板
国有地という事は国鉄関連の会社が所有する
土地なのでしょうか
(画像は一部加工しています) 
街頭地図の近く、妙に細長い空白の端
(矢部駅側)から見た廃線跡
僅かに線路も見えるが見事に近隣住民の
菜園と化している
もちろんここも国有地で菜園としての利用は
禁止されているのだが 
 ▲撮影 7N4RBN様 2001/12/29 

 米陸軍相模補給廠専用線跡 2012年・2016年
 
画像E

2012/11/25
画像E
 
2016/8/9

2012年にはこの廃線跡は
近隣住民の憩いの場や菜園として機能していたようですが、
2016年には道路との境に仕切りもできて放置状態でした。
(でも、レールは残っていました。)
 ▲撮影 64-51様 
2023年 05/03
米陸軍相模補給廠専用線跡 2023年 
画像E
画像E
画像F
 草木が生い茂っていますが
線路は残っている様です。
しかし、一部しか確認できません(汗)
米軍相模総合補給廠内の線路は
目視できませんが 
立入禁止なので
線路は撤去されているのか
あるいは盛り土で見えないかは
判断できません。
画像C 
線路は撤去されている
▲撮影 7N4RBN様 2001年末
 赤矢印
 
 
線路は、撤去され踏切の痕跡が残るのみ
■撮影 2023/09/17 
   
 (新)上矢部公園に移設された石碑   ■撮影 2023/09/17
 

 

相模兵器製作所

(旧日本陸軍) 相模陸軍造兵廠

(敗 戦)

米軍横浜技術廠相模工廠

(在日)米陸軍相模補給廠

(米陸軍)相模総合補給廠

在日米陸軍本州司令部相模工務局
(在日米軍相模工務局)


<参考資料>
トワイライトゾーン MANUALW ネコパブリッシング
今に残る軍用線路跡@相模陸軍造兵廠線 
 


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